■親の理想 「裸足の季節」(2015)
「裸足の季節」というトルコの映画があります。10代の5人姉妹の物語です。ごらんになりましたか?
両親を亡くして祖母とおじといっしょに暮らす姉妹たちは全員が美人で、男の子と遊んだり好きな服を着たり、奔放な日々を楽しんでいました。
祖母やおじに叱られても、従いません。しかしある日ついに家のなかに閉じ込められ、学校をやめさせられ、軟禁状態のまま彼女たちは花嫁修業を始めさせられるのです。そして、ひとりずつ結婚させられていきます。
トルコの宗教観がかかわってくるので、日本ではなじみのない話です。ですが、「親の理想」について考えたとき、わたしはこの映画のことを思い出すのでした。
個人的なことですが、どうしておかあさんはわたしにあんなことを言っていたんだろう?と子供のときから自分のなかに秘めていた問いがありました。大人になってその答えは、「それが理想だったから」だと判明したときがありました。
それを知ったとき、拍子抜けしたというか、呆気にとられたというか、複雑な思いになりました。
理想って?理想の意味が、わたしはよくわからなかったのです。頭のなかには長いあいだ、理想という言葉自体がまったく存在していませんでした。
10代、20代のころは、雑誌などを見て「こういうのが理想」って自分も言っていたと思います。ですが、たぶん20代後半あたりから、理想を抱かなくても生きるようになってきたのか、ただ現実を生きていたように思います。
こうなったらいいなあというのはありますが、それは先日書いた
ゴーヤの実がなったらうれしいくらいの次元なので、理想かというと、すこしちがう気が。
一生知ることはないだろうと思っていた答えを、ウン十年を経て知ってしまい思ったのは、理想のことを、「社会的にそうであるとよいとされること」に言い換えたとき、その価値や基準は、時代とともに変わるということでした。
こうあればよいとされていたことが、近い未来では時代によっては、あるいは置かれる環境によっては、どうでもいいことになっている可能性もあるのではないかな。
子供がいたら理想の子供にしちゃいたくなるのかもしれないし、わたしは子の親ではないのでわかりませんが、自分以外の他人(子供も自分以外です)に託す理想は、あんまり抱かないほうがいいのかもしれませんね。
いいところを伝えてあげるくらいでいいのかもしれません。愛しているよ、ということと。
苦手分野はほかに得意な人がやるでしょうし、その人の性質としてないものを、むりやりできるようにさせようとしても、いいことはないでしょうし、マルチな人であらねばならないことは、ないような気がするのです。
実際、わたしは母の理想どおりになりませんでしたし、人を変えることはできませんからね。
自分が変えることができるのは、自分です。
これを書いていて思ったのですが、「欲」なのかなあ。理想というのは。むかし物欲にまみれていたわたしですが、いまは家と食材があればじゅうぶん、と思うので。
それが足りているので、理想というとピンとこないのかも・・・・・あ、理想の体重はあるといっていいかもしれません。ダイエットはしていませんが。身長は変えられませんが、体重は変えられますね。
さてこの映画、監督は女性です。
美しい5人姉妹、彼女たちの部屋や一軒家の内装のちょっとくすんだパステルカラーのブルー、きみどり、ピンクなど、ガーリー番長ソフィア・コッポラが手掛ける映画の映像によく似ています。
「トルコのソフィア・コッポラ」と、わたしは勝手に名づけました。
英語のタイトルは"Mustang"というのですが、これは、野生の馬、野生化した馬という意味らしいですよ。生命力あふれる姉妹たちのことなんだろうなあ。邦題「裸足の季節」だとぜんぜん伝わらないところ。(笑)