「自分が描きたい世界があって」という箇所に最初に引っかかった。
自分の美学とスタイルをもつ神谷さん。
生きるのがうまくない。なかなか人に世間に理解されない。良さが才能が伝わらない。
そういう姿、自分自身や家族や友人だったりに思い当たる人、いるんじゃないだろうか。
商業的なことを放棄してまでも、自分が思う「面白い」を追求。
ずっと売れず借金は膨らみ、借金取りに追われながら、
それでも笑わせ方を考えることをやめないでいる(しかしやり方がわからない)うちに、
シリコン入れて巨乳のおっさんになってしまう。という神谷さんなのだが、
彼を尊敬し並ならぬ才能を見出している主人公にとって、
世間的に開花しない(つまり商業的に売れない)その姿は痛々しいほど不憫でならないはずで、
しかしいっぽうで、神谷さんと居心地のいい日々を送りその教えについていきながら
主人公はやがて、芸人として売れるということは自分にとっては、
神谷さんが歩く道をついていくことを「破壊する」ことではないかと思うようになる。
つまり主人公が神谷さんからひとり立ちするときがくる。
自分のスタイルを貫くことと、売れること(世間)との折り合いのむずかしさは、
我が事のようにわかる人も少なからずいると思う。
神谷さんは、「美しい世界を破壊するところに面白いが起こる」というようなことを言っていて、
主人公が芸人として神谷さんとちがってくる(破壊した)ことはなにを表しているのかというと、
主人公と神谷さんが過ごしてきた日々は濃密で美しい幸福な世界であったということを表していたんだ。
それほどに主人公は神谷さんが大好きなんだ。ということに、最後まで読んではっきりする。
壊して成長する、その痛みの物語であるように思う。
注目されるのは一握りの人たちだけれど、はじめから一人しか芸人がいなかったらそいつは面白くなっていなかったはずだ
無名の奴らの存在があったから有名になれた奴らがいるのだ
どいつもどんな無名の奴も必要な存在だったんや
芸人をやめて就職しても、おまえは一生芸人であり人を笑わせることができるんや
笑わせて生きていけ、というようなことを神谷さんは語る。
ぜったい報われる保証はなにもなく、自分が考えた「面白い」を笑ってもらえる保証はなにもない。
そのような状態で、舞台に立ち披露する恐怖に挑み続ける。
そのような状態で、舞台に立ち披露する恐怖に挑み続ける。
自分のなかでは面白いのに、世間に出すと面白くないということがある。
わたしは人知れずやっていたいという心理についてときどき考えるのですが、
世間に晒すことによって起こる「なにか」を、恐れているからなんだろうなと思う。
自分が描きたい世界があって、神谷さんはなにがあってもそれをやり通すが、
主人公はそこに世間的な制約があるとやめてしまう傾向について書かれた箇所がある。
わたしは神谷的な部分が自分にあると思うけれど、
制約を突き抜けるほど神谷的ではなく中途半端なのでした。
そういう人、多いのかもしれないなあ。
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